市民講座「野外彫刻・オブジェ鑑賞散策のススメ」の報告

図書館ボランティア「小荷駄のみどりから…」

2012年07月29日 00:14



















 2012年7月15日、山形美術館主任学芸員・月本寿彦氏を講師に迎え、「山形市中心市街地の野外彫刻・オブジェ鑑賞散策のススメ」と題した市民講座を開催しました。その報告です。

 講師の月本氏は米沢市出身。山形大学教育学部に学び、高校教諭を経て、広重美術館(天童市)に勤務。社会人として大学院に入学。専門性を磨き、山形美術館の学芸員となられました。
 山形市に本店のある八文字屋書店が発行している季刊誌『街角』に2009年から2010年にかけて連載された「街角オブジェ」の執筆を担当。山形市内の野外美術作品について調査を行い、このとき、設置者、関係者などに当該美術作品を設置したときの事情や背景について聞き取りをされています。


 月本氏の講演の概要をまとめると、以下の通り。(文責・企画広報担当高橋)

 彫刻は古代ギリシャを発祥としている。古代は人間性が尊ばれていたが、中世になるとキリスト教によって、人間の姿を彫刻にすることは偶像崇拝であり神への冒涜であるとされる。ルネッサンス期に人体をモデルとした彫刻が復活するが、これも次第に形式化していく。
 近代の彫刻が開花するのは、19世紀に入ってフランスのロダンが現れてから。ロダンの弟子であるマイヨールや逆にロダンに反発する立場の人々によって、近代の彫刻の歴史が刻まれていく。
 一方、日本では、近代以前から木彫はあったが、もっぱら信仰の対象だった。明治期に初めて西洋から彫刻が導入された。大正から昭和にかけて、彫刻は展覧会や美術館にやってくる一部の人びとのものでしかなかったが、戦争の時代がくると、偉人・軍人・貴族等の銅像を野外に設置して、常時一般人に見せるということが広まってくる。
 戦後は、行政が戦後復興の象徴として彫刻を位置づけたので、雨後のタケノコのように野外彫刻が全国に広まった。日本ほど、はっきりした目的もないのに野外彫刻がたくさん建っている国は世界にない。
 しかし、見方によっては、お金を払って美術館に行かなくても、タダで鑑賞できる美術作品がたくさんあるということ。行政によって建てられた野外彫刻は玉石混交だが、総体としてはいいことだと思う。

 彫刻を鑑賞するポイントは3つ。
 <テクスチャー>・・・作品の肌合い。これが視覚的なリズムを伝えてくる。
 <ムーヴメント>・・・どんな動きが読み取れるか。
 <意味>・・・作品全体が意味するものは何か。


 以下は、山形市街地の野外彫刻・オブジェの個々に対するコメントの概要。(ナンバーは「散策マップ」上の番号表示をさす。)

 山形美術館前の広場「美術館前スクエア」は、山形市の公園の一画だが、民間の同美術館と一体的に整備されている。ここに6作品。さらに、となりの最上義光歴史館の前の公園に2作品ある。
・No20 ハンス・コック(独)「ハモニアの頭」1984‐85/1987・・・人間の首から上の像だが、キュビズム的な造形。
・No22 蓮田周吾郎「ブラスの抱擁」1986・・・石川県出身の作家。真鍮製でカギ型の、2体で一対のオブジェ。素材感を鑑賞してほしい。
・No23 佐藤助雄「燭」1984/1987・・・山形市出身の作家。女性が燭台を持つ立ち姿の像。作者の母をモデルにしたものだが、その母はこの像が完成して3ヵ月後に死没したという。
・No18 佐藤忠良「愛の女神」1988/1989・・・宮城県出身の作家。宮城県美術館に作品が多数収蔵されている。この作品は、現にこの作品がある最上義光歴史館の前の公園に設置するということを作者に伝えたうえで制作依頼したもの。

 山形市役所の敷地内の作品は、
・No30 吾妻兼治郎「MU-1000」1984/1984(市役所庁舎東側)・・・山形市出身の作家。銅鐸のような形象のオブジェ。作者はミラノ在住。イタリアで公園のデザインなどを手がけており、マイスターの称号を得ている。「MU=無」シリーズ最大の作品で、同シリーズ1000作品目。何もない無ではなく、<無>というものがあるということを表現している。
・No32 豊田豊「無限空間1984」1983/1983(市役所庁舎西側)・・・リング状に曲げられたステンレスのオブジェ。周りの環境が歪んで映り込む。作者はサンパウロ在住。
・No33 神長佐充(すけみつ)「雷の休日」1983/1983(市役所庁舎西側)・・・東京都出身のグラフィックデザイナー。幼年期を山形で過ごす。重厚な御影石の上にステンレスの扁平な球体が半分だけ乗っかっているオブジェ。

 公園通り商店街(大手門パルズやNHK山形放送局のある通り)の歩道上の作品は、1995年の街づくり事業で県の助成金と地元の負担金で造られたもの。当時はこの通りに(株)シベールの菓子店があったので、同社の熊谷眞一氏が設置を熱心に働きかけた模様。No6からNo16まで11作品が設置されている。

 霞城セントラルの西側にある鮮やかな色のグラデーションがついたオブジェは、
・No1 會田雄亮「虹の防人」2000/2000・・・東京都出身。戦時中を両親の出身地山形で過ごす。東北芸術工科大学の初代学長をつとめる。この作品は、同施設の落成記念モニュメントで、11メートルの高さまで陶器のブロックを積み重ねたもの。紅色のラインはこの作品に映る夕焼けのラインと一致させている。

 霞城公園でひときわ目立つのは、
・No25 西村忠「出羽守近衛少将最上義光騎馬像」1977/1977・・・山形市出身の鋳金工芸家。歴史的な考証に拘らず、勇壮な動きを表現したもの。騎士を乗せた馬の後ろ足二本だけで建っている像だが、この重量を二本の足だけで支えるには高い技術を要する。(株)でん六の鈴木伝六氏が建造に関わっているが、かれが二本足のポーズに拘ったと言われている。

・No36 文翔館前庭の噴水(1986年ころ)も、山形県のマークをモチーフにしたオブジェ。作者は不詳。

 最後に、屋内展示であるためこの散策マップ上の番号は付けられていないが、市役所を訪れた際には、ぜひ鑑賞してほしいのが次の作品。
・ 新海竹太郎「ゆあみ」1907/1958(市役所1階ロビー)・・・山形市出身。日本近代彫刻界の第一人者。このブロンズ像は、作者の甥で彫刻家の新海竹蔵の監修によって1957年に鋳造されたもの。山形美術館に収蔵されている作品よりも良い出来である。(講演概要はここまで。)


 
 蛇足ですが、上記のうち筆者が好きな作品は、會田雄亮「虹の防人」、神長佐充「雷の休日」、文翔館前庭の噴水、です。
 また、逆に、もうちょっと考えてほしかったなぁ・・・と思ってしまうのは、公園通り商店街の作品群です。いわゆる「バブル期」やバブル崩壊後の「行政バブル期」(景気浮揚のために公共事業をバンバンやった頃)に、土木・建設サイドで「行政の文化化」などということが叫ばれ、多くのオブジェや彫刻が設置さたり、美術的なデザインがなされたりしましたが、多くはセンスのなさに唖然とするものでした。でも、いまになってみれば、そういうことも微笑ましい・・・。
 そんな歴史も含めて、散策しながら作品たちを鑑賞し、この街を楽しみたいものです。・・・この狭いせまい山形の市街地にも、まだまだ見所がありそうです。
 なお、今後、公共事業などでオブジェや彫刻を設置するときは、ぜひ東北芸術工科大学の学生の作品を買い上げたり、発注したりしてほしいと想います。卒業作品展などに行くと、なかなかいい作品があります。

 さて、次回の「小荷駄のみどりから・・・」の市民講座は、内容・時期ともに未定ですが、今年中には開催したいと思います。  (企画広報担当・高橋記)



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